午前中検査の仕事がありました。
予定より15分くらい出遅れてしまいました。(^_^;
まあ、それでも余裕かなと思ったのですが、高台にあり着いたのは検査に時間丁度でした。(^_^;
検査が終わってから母校の茨城キリスト教学園に行ってきました。
守衛さんのところで、受付をするほどでは無いかなと思ってスルーしたのですが、これがあとからちょっと問題に(^_^;
恩師がいる記念館に行ったのですが鍵が掛かっています。(>_<)
今日は来てないようです。
敷地内には幼稚園の建物や、大学の新しい建物が一杯(^_^;
すっかり変わってしまいました。
いつのまにか幼稚園も出来ていました。(^_^)
大学の建物も今年の4月から出来そうです。
前にも紹介した記念館ですが、鍵がかかって誰も居ませんでした。(^_^;
白井晟一が設計したサンタキアラ館です。
硝子が一部壊れていました。(^_^;
中を観るのは初めてです。(^_^)
電気が消えていたのですが、カメラのストロボだけでこれだけ撮れるのは凄いですね。
私の結婚式もここで挙げようと思ったのですが、丁度その日は予定が入っていました。
今では、年に一組くらいが結婚式を挙げていると言うことでした。(^_^)
アンネのバラです。
以下引用です。
アンネのバラが最初に日本にやってきたのは1972年です。
その前年、1971年に日本とイスラエルの文化交流のために合唱団がイスラエルを訪問しました。(「アンネ・フランクのバラ」の本の編著者は聖イエス会の方々ですので、合唱団というのは聖歌隊に近いのかもしれません。)
合唱団の方々は、イスラエルのレストランで偶然アンネ・フランクの父オットー・フランク氏に出会います。「アンネの日記」のことはもちろん合唱団の方々も知っていましたので、その時から合唱団の方々とオットー氏との交流が始まりました。そして1年後にはオットー氏の好意によりアンネのバラ10株が日本に送られました。
アンネのバラは正式な名前を「Souvenir d'Anne Frank」といい「アンネ・フランクの形見」と訳されています。
輸送事情の悪さから苗木の到着までに1ヶ月もかかってしまい、10株のうち9株が枯れ、1株だけが合唱団の一員で聖イエス会の創設者でもある大槻さんの庭に根付きました。この1株がアンネのバラと日本を結びつける最初の1本となりました。
アンネのバラはその後、大槻さんと「アンネの日記」を読んだ学生たちの交流からその存在が広く知られるようになりました。「私達もアンネのバラを育ててみたい!」という学生たちの希望を受け、オットー氏は更に10株のバラ苗を日本に送りました。この苗を園芸家や学生たちが接木をして増やしていった結果、現在では日本中でアンネのバラが栽培されるようになりました。平和学習、国際理解学習としてアンネ・フランクを取り上げた学生たちの多くが学校でアンネのバラを栽培しています。検索サイトで「アンネのバラ」をキーワードに検索してみると、各学校が「アンネの日記」を研究し”アンネ・フランクの形見”と名付けられたバラを大切にしている様子を知ることができます。
礼拝堂も綺麗になったから観てきた方がいいというの行ってみました。(^_^)
キリスト教の講演があるということでしたが、時間が無いのでパス
守衛の人が来て、写真を撮っていたので誰なのかと問い合わせがあったと言うことでした。(^_^;
卒業生と言うことを説明し次回からは受付をすることにしましたよ。(^_^;
02さんに行ったら派手な車が(^_^;
派手は車ですね。と言ったら自転車も十分派手ですよと言われてしまいました。(^_^;
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高校時代、学校から六本木に遊びに行く途中に、
代表作のロアビルがありました^^